水無月が終わる頃
藤井憲之 青白磁 波の6寸皿
水無月の無(な)は、「の」の意味で、『水の月』
旧暦で、田に水を入れる月のことだそうです。
その、水無月も終わる頃に
「愛している」と、
耳に残るかたちにして逝った人のことを聞いて
深いところで私の心が動いた気がしました。
よく、この世を去るときに感謝出来るように生きる、
とか言いますが、普段から周りの人に何かと助けられているので
「ありがたいな」と、日に何回も感じて過ごしているから
きっと私が死ぬときも「ありがとう」って
普通に言えるだろうなと思っていました。
でも、「ありがとう」って、〜してくれてありがとう、の受け身。
残されたものにとっては、もっとしたかったのにと、思うもの。
けれど「愛してる」は、もっと能動的ななにかを「残す」感じがして
言ったほうにも幸福感があるように思う。
失ったあとで、愛されている、と気付くまでは
ひとは悲しみに苦しむけど
ちゃんと、言葉として耳に残っていれば
生きていくチカラを授けてくれたようなもの。
マザーテレサも、死にゆく人に「愛している」と伝えたそうで
「愛している」は魔法の言葉と聞くけれど
言うほうも、聞くほうも「ありがとう」以上の
究極、なんだなと感じました。
死にかたは生き方、だと思っていたけど
つくづく、それは時間的な長さは さほど問題ではなく
深さ、なんだなと。。。
なんでもない日常でも
自分の「愛してる」を思えば
より深く気付けるものがある
そんな日常を過ごせるように思います。
ちょっと長くなっちゃいました。
上の写真のうつわの作者、藤井さんは
「自分の作るうつわは、なんでもない器」と
おっしゃったそうです。
でも、その「なんでもない」が
美しいのです。